suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

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小学校5年生と6年生のとき、学年にT先生という男の先生がいらした。

算数と体育が専門らしく、筋肉質で、いつもホイッスルを首から下げてきびきびしていた。

5年生と6年生は持ち上がりなので、1組のわたしは3組のT先生に教わることはなかったが、学年合同体育だとか、運動会の練習、遠足、修学旅行、社会科見学などではお世話になった。

お世話になったし、T先生のほうがやたらと、といってはなんだけど、ずいぶんちょっかいを掛けてきた。

わたしは体育がすごく苦手だったし、乗り物に弱かったから、バスを使う遠足や修学旅行、社会科見学には、できればいきたくないくらい、消極的だったのだ。

 

当時、わたしの母はPTAで役員をしていた。

昭和時代の下町のことで、役員会ははっきりいって派手、先生方ともよく飲みにいっていた。

頭の回転のすこぶる早い母と、明るくマッチョなT先生は、とても気が合ったようだった。

いま思うと、陰で二人は話を通じさせていたのだろう。

 

日光への修学旅行、校庭からバスが出発するとき、T先生がわたしのところにきて「O田はいちばん後ろに座りなさい」という。

わたしはそれだけで青ざめた。

いちばん後ろなんていちばん揺れそう、いちばん酔いそう...

 

はたして日光いろは坂

大柄な男子にはさまれたわたしは、右へ倒れ、左へ倒れ、前にしがみつく男子のお尻の後ろに倒れたりして、みんなできゃあきゃあ大騒ぎ。

ちっとも酔わなかったのだ。

T先生の作戦成功というところ。

 

小学校最後の年が明けて、6年生の1月。

わたしは中学受験を控えていた。

あすから数日は入試のために休むというその日に、T先生はわたしを呼びとめた。

 

「これはまだ誰にもないしょだよ。先生のとこにな、きのう女の子が生まれたんだ」

「わー、赤ちゃん生まれたの、おめでとうございます」

「それでな、先生はその子の名前をもう決めた」

「なんていう名前」

 

先生が答えたのは、わたしと同じ名前だった。

文字もいっしょだという。

わたしは聞き返さずにいられなかった。

 

「ほんとに。ほんとに決めたの」

「決めたよ。O田みたいに聡明で優しい子になって欲しいからな」

「だいじょぶかなあ」

「なにいってんだよ」

 

二人で笑いあう。

わたしは、本気で、先生は取り返しのつかないことをしようとしているのでは、と心配したのだ。

 

「だからっていうわけでもないけどさ、お前、試験がんばってこいよ」

「うん」

「いい知らせ待ってるよ」

 

自分が親になって、こどもの名前をつけるという機会は人生に数回しかないことを身をもって知った。

その一回に、T先生はわたしの名前を使ってくれたのだった。

娘さんはどんな女性に育ったのだろう。

娘さんを呼ぶ何百回かに一度、あるいはなんでもないときかなんかにふと、T先生はわたしのことを思い出してくれていただろうか。

 

T先生とお会いしたのは中学1年生のとき、趣味として描かれていた油絵の個展におじゃましたのが最後だった。

先生のクラスにいた男の子のHくんと二人でいった。

Hくんは体育も得意でオール5、背が高くてハンサムで、T先生の自慢の生徒だった。

 

T先生はとても喜んで、わたしたちを画廊の近くのフルーツパーラーに連れていってくれた。

ショートケーキとオレンジジュースとハーフカットのグレープフルーツ。

そんなに食べられないというのに、テーブルいっぱいに二人分並べて、自分はコーヒーだけ飲んで、にこにこにこにこしていた。

添削もイタコで

去年の夏、ある公立図書館の青少年活動支援課からの依頼を受けて、中高生のための文章教室を開きました。

 

小学校から始まる作文教育について、わたしは専門外ですが、自分の経験からしても、書くことが楽しくなるような教えかたというのは、なかなかされていないだろうなあと想像していました。

 

本人が書きたいことを、書きたいように書ければ満点。

書きたいように書くための、語彙や文法、ちょっとした技術を教える、わたしなりの作文教室を開きたい。

ずっと思っていたことだったので、依頼はとてもうれしいものでした。

 

3回で修了のプログラムを作りましたが、無料の教室ということもあって、通してこられた子は二人でした。

のべ8人のこどもたちを、つまり、個人教授したのです。

一人称を選び直すところから始めて、800文字の「わたしの夢」を書き上げることが目標。

時間内に添削しようとがんばった結果、すぐには立てないくらいへろへろになってしまいました。

 

こう書きなさい、というお手本を示すなら、わたしにとっては教室の意味がありません。

その子自身が、書きたいことを書きたいように書けるための添削です。

ブログを書くときのインタビューと同じく、一人一人をイタコしました。

 

こどもたちの反応は、まずまず。

最初はとても恥ずかしそうだった中三男子二人が、活き活きした作文を完成させてくれたのもうれしいことでした。

 

わたし自身は、いわゆる文才というものは、全員が持っているのだという思いを確かめることができました。

文才、それはすなわち、その人の心なのです。

 

心は言葉に満ちています。

一つまた一つと選んで綴りましょう。

 

さくるの添削では、選ばれた言葉を確かめる作業を、ご一緒に行っていきます。

大人の赤ペン先生、またの名をイタコ編集者として。

いい文章も上手な文章も、幻。

初対面の方に仕事の話をすると、たいてい「文章が書けるなんて羨ましいですね、わたしは書くのが苦手で」という流れになっていきます。

 

なにをするときもそうだと思うのですが、苦手意識というのは持つ必要のないものの筆頭です。

得手と不得手はたしかにあるでしょう。

でも、それも、たんに「これまで」のことに過ぎません。

誰に向かっても、どんなことについても、自分はそれが苦手だなんて、自分をけなさなくていいのです。

 

わたしの守備範囲であるライティングに関していうと、自分の文章と比べる対象になる「上手な文章」や「いい文章」などは、そもそも存在していません。

「読む」ときにはそれはたしかにありますし、それが文学というものだと思いますが、「書く」ときにはまったく話が違います。

 

「書く」ときには、自分が書く自分の文章のことだけを考えていましょう。

どこかにある素晴らしくいい文章、素晴らしく上手な文章のような文章は自分には書けない、だから自分は文章を書くのは苦手だ。

そんなふうに帰結させなくて、いいのです。

そんな文章、幻ですから、ぜんぜん気にすることはありません。

 

選びなおした一人称で、目の前の紙に書く、あるいは目の前のキイボードで打ち込む文章だけが、あなたの文章であり、それは生まれたそばから美しい文章になっています。

あなたが書くから美しい。

その前提を、一度ばしーっと信じてみてください。

 

さくるより、そこのところ、どうぞよろしくお願いいたします。

わたしに「わたし」を重ねる

2年ほど前から、依頼をいただいて、文章教室を随時開催しています。

記念すべき第1回は、中高の同級生たちの勉強会でした。

そのときからずっと、生徒さんたちに最初にしてもらっていること。

それは「一人称を選びなおす」ということです。

 

日本語には一人称が数多くあります。

英語なら「I」一つですよね。

日本語は、一人称を使わないで自分のことだと察してもらう、という方法まであるほど、一人称が複雑な言語なのです。

 

それなのに、なのか、そうだから、なのか、一人称を自覚を持って使うという機会も、わたしたちには、なかなかに与えられないように思います。

 

いまあなたが使っている一人称はなんですか。

それはいつから使っていますか。

なぜ、その一人称を使っているのでしょうか。

 

これらの質問に答えていただくのも意味があることなのですが、わたしは気が短いほうらしく(気づかされたエピソードは後日)いま使っている一人称をいったん机に戻して、他のぜんぶの一人称とシャッフルしてから、改めて選びなおしてみませんか、とお勧めするほうが性に合っています。

 

それをすると、この「自分」と、文章のなかの「自分」が一致します。

意識の自分と、文章の話し手が同じになるのです。

わたしはほんとうはこう思っているんだけど、どうしても文章には表せない、文章を書くのは難しい、という思い込みが外れます。

 

いままでは、なんとなくで使っていた一人称を、自分自身のものにチューニングし直したとき、まるで他人のようだった文章のなかの自分が、この自分にぴったりと重なります。

思っている自分と、書く自分の乖離がなくなるのです。

ここからは、なにを書いても自分自身の文章。

 

多少疑問が残っていても、そういうことにしてしまうのがコツです。

強引ですが。

 

わたし、わたくし、ワタシ、あたし、あたくし、あたい、あちき、わらわ...

女性的なものを仮名で書くだけでも、すぐにこんなに挙げられます。

漢字では、おそらくいちばん多くの人が使っているであろう、私。

これら思い起こせるすべての一人称のなかから、自分にいちばんぴったりくるものを一つ。

 

きょうからその一人称を使って、文章を書いてみませんか。

そうしたら、あなたはもう、さくる文章教室のベーシック修了です。

次はいきなり中級ですからね、ご用心ください。

羽生さくるができるまで ③デビュー!

27歳で結婚をしたのを機に、編集プロダクションで週3日働きはじめました。

単行本の編集は初めてで、初稿から校了まで、一人で担当する大変さを知ることに。

2年めの夏、週刊誌時代の知人から、新書を1冊書き下ろしてみないかという話が突然にやってきたのです。

前にも書いたように、締切は1か月後。

プロダクションの仕事は辞め、書き下ろしの準備に没頭しました。

 

ともだちのインタビューのメモから、数十枚のカードを作り、それをアパートの床いっぱいに並べました。

エピソードをグループ分けするためでした。

そして、職場のあるシーン、OLのある1日、OLの四季という、時間の長さと流れで章立てをし、それぞれを、コラム、小説、俳句の解釈と鑑賞、の形式で書くことを決めました。

さらに、ページ割、字取り、行取りもしてから、本文を書き始めました。

時間がなかったので、原稿が書けたら編集もできているようにしたかったのです。

 

少女漫画家でもあるデザイナーが、原稿と同時進行で挿画を描いてくれました。

いよいよ入稿というとき、編集者から、名前はどうしますか、と聞かれました。

アルバイト時代からずっと本名で仕事をしていましたが、出版するにはやはりペンネームが必要。

婚家に迷惑を掛けることになったらいけないなあ、なんてことも考えたりして。

 

アパートには、友人の画家から結婚祝いにもらったスイカズラ木版画が飾ってありました。

スイカズラの花はティンカーベルみたいでかわいいなあ、スイカズラって、英語だとhoneysuckle、ハニーサックル...

小さなメモ用紙に、はにーさっくる、と書き、はにいさくる、にしてみて、でも羽仁さんて映画監督がいるから.....羽生はどう、羽生さくる、あ、いい、これ。

と、2分くらいで決定。

 

タイトルは、OL歳時記の本文からです。

「賞与の日部長さんがサンタクロース」

もちろん、ユーミンの「恋人がサンタクロース」のパロディ。

ペンネームもタイトルも、もじりでつけたというところが、わたしらしい...

 

思えば「羽生さくる」になってからの人生のほうが、本名だけで生きていた時間より長くなりました。

出会った方々から「さくるさん」と呼ばれるのも、とてもうれしく思います。

これからも、この名前で、日々、言葉を選び、文章を綴っていきます。

 

 

 

 

 

 

羽生さくるができるまで ②アルバイト時代

A日新聞社編集局、煙草のけむりがもうもうと立ちこめる週刊A日編集部で、わたしは編集者という人に初めて会いました。

小柄でにこやかな、当時のわたしから見たらおじさん。

彼は、もうすぐ担当者が代わるから、とその人を紹介してくれました。

やはり小柄で、ざんばらした若白髪に丸い眼鏡、和風で端正な顔立ちの、いまでいうならジブリのアニメのキャラクターのような、おにいさんでした。

彼はにこり、と笑いました。

「よろしくお願いします」

初めてリアルに聞く、関西訛り。

とても知的に響いたのが忘れられません。

 

高校に入る前後から、わたしは筒井康隆さんのSF小説を読みふけっていました。

彼の作品のなかに、ことわざをパロディしたり、変形させていくくだりがあります。

もともとことわざが、辞典を愛読するほど好きだったわたしは、自分でもやってみたくなり、たちどころに20個くらい作ってしまいました。

 

いまも覚えているのは

「河童の質流れ」

「覆水盆がはよくりゃはよ戻る」

「色の白いは一難去ってまた一難」

「寄らば大樹の陰で斬るぞ」

あたり。

 

これをまた、自主的に、といえば聞こえはいいけれど、勝手に、上記若白髪のおにいさん編集者に送りつけました。

古典文学好きの彼の感覚に訴えたのか、ことわざパロディは即1ページの企画となって掲載されました。

その後2回もアンコールされ、さすがのわたしももうネタ切れになったものでした。

 

ちょうど別の企画で編集部に呼ばれていた『ビックリハウス』の編集長が、もらって帰った本誌でこのことわざを読み、自分のところでもやってもいいかとお伺いを立ててきたそうです。

おにいさん編集者が、どうぞご自由に、と答えた結果、読者投稿の人気ページとなり、「ご教訓カレンダー」が生まれたのです。

あれはもとはといえば、わたしの「河童の質流れ」。

いえ、ほんとうのもとはといえば、筒井康隆さんですね。

 

その後も高校の間は、編集部のおにいさんやおじさんたちにパフェやケーキをご馳走になるために、文字通りときどき遊びにいっていました。

そして、大学に入る直前、おにいさん編集者が、後に伝説となった「デキゴトロジー」というページを始めます。

わたしも大学生チームに組み入れられ、ネタ探しを始めました。

 

ところが、わたしはどうもネタ探しが不得意だったのです。

ただ飯食いのそしりを受け、ついに、別の編集者にトレードに出されました。

彼はおにいさんより少し年上で、時間を掛けてコツコツ資料を集め、緻密な記事を書き上げる人でした。

わたしは、彼の資料集めの助手になりました。

大学1年の夏休み、連日国会図書館に通い、職員の厳しいチェックをくぐり抜けながら、ほんとうならできない一冊まるごとコピーを敢行。

大宅壮一文庫にも通って、雑誌のコピーをたくさん取ってきました。

わたしは資料集めには適性があったようでした。

 

このあと、大学4年間と卒業後の5年間を通じて、芸能ページのインタビュー、婦人欄の投書のリライト、連載小説のあらすじ、女性誌のまとめコラム、似顔絵塾の塾長秘書、別冊の取材と編集、対談のアシスタントと原稿起こし、など、さまざまな仕事をさせていただきました。

OL用語集という、デビュー作の前身になるコラムを担当していたこともあります。

タイトルは「OLコンサイス」と自分でつけました。

 

この間に、新聞社は初めて訪れた有楽町から築地に移転。

15歳から27歳までの12年間、ほんとうにお世話になりました。

わたしのライター/エディターとしての基礎は、すべて、この編集部で学ばせていただいたものです。

いわゆるメジャーな文化人の方々や、芸能人の方々とも、仕事をする者として関わらせていただき、まったく夢のような時代を過ごしました。

 

吉行淳之介さんにインタビューをして150字の原稿に起こしお送りすると「よくまとまっています。これでOK」と書き添えて返送してくださいました。

直しは助詞が一つと、なんとかかんとかだね「ぇ」を「え」にするようにという指示だけ。

以来わたしは、助詞をダブルチェックしながら書き、音引きは必ず大きな文字でします。

吉行さんからは、物書きとして、一生の宝物をいただいたと思っています。

 

 

 

羽生さくるができるまで ①投稿魔少女時代

スマートフォンも携帯電話も、パーソナルコンピュータもワードプロセッサーもなかった昭和40年代。

自分の名前や文章が活字になるということは、まぶしい憧れでした。

とくに、言葉と文章と活字に魅せられたこどもにとっては。

 

わたしの家では、父がA日新聞を取っていました。

祖父の代から読んでいるから、という理由だったようです。

漢字がだいたい読めるようになった小学校の4年生くらいから、わたしは新聞にも耽溺しました。

夕刊が届くとすぐに読んでしまい、母に、おとうさんが先、とよく叱られていたのを思い出します。

 

小学校5年生の夏、朝刊の東京版で、早乙女貢さんによる東京大空襲についての連載が始まりました。

わたしはぜんぶ読み、連載終了後の感想特集も読んで、それについての感想を自主的に東京版宛てに送ったのです。

最初に書いたものをなくしてしまい、もう一度書き直したせいで、よりまとまってどうやらエッジの効いた文章になっていたようです。

数日後、感想の感想ということで、わたしの投書が全文東京版に載りました。

これが、活字初体験です。

そのうれしかったことといったら。

新聞を開いたまま掲げて部屋で飛び跳ねました。

 

後日、学生運動で収監されているおにいさんからの、桜のマークの校閲印が全ページに押された長いお手紙が編集部から転送されてきたのも、驚きでした。

母は心配していましたが、わたしには難しくてちょっと意味がわかりませんでした。

感じとしては、ファンレターだったように思います。

 

その次は、中学3年のときでした。

同じA日新聞の「声」欄。

当時マスコミを賑わせていたフェミニズム活動グループへの批判を思いっきり書いたら、また載ってしまいました。

 

その頃から、わたしの興味は、新聞自体よりも、同じ新聞社から出ている週刊誌のほうに移っていきます。

中学の卒業文集の「将来の夢」には、その週刊誌の編集部で働きたい、と書いています。

わたしが通っていた中高一貫の女子校では、ありがちな話ですけれども、ちょっとエッチななぞなぞが流行っていました。

 

問題:新幹線は男か女か。

答え:男。エキを飛ばして走るから。

 

他愛ないウルトラマンなぞなぞも同時に流行っていて、わたしはそれらをまとめて、また自主的に、つまり募集もされていないのに、週刊A日のタウン欄に送りました。

きっちり電話番号も添えて。

ほどなく、編集部の人から電話が掛かってきました。

 

「なぞなぞ面白いね。載せたいから、一度編集部に遊びにきませんか」

 

わたしはまた、部屋で小躍り。

ちょうど高校に上がる前の春休みのことでした。

母が編んでくれた、真っ赤なニットのジャケットを着て、有楽町の新聞社を訪ねます。

有楽町駅から銀座に抜けるたびに「いつかこのなかに入りたい」と両親にいっていたその建物に、15歳のわたしは、たった一人で入っていきました。

 

つづくー。