suckle nouveau 2017

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

お題頂戴エッセイ大喜利⑥ 美意識

わたしが思う「美意識」とは「かっこわるいことをしないこと」。

 

かっこいいことをするのはさほど難しくないし、意識もとりたてて必要としない。

かっこいいことは万人受けするものだし、

受けなければかっこいいと思ってもらえない。

だから、かっこいいことはポピュラーだ。その形を踏襲すればいい。

 

いっぽう、かっこわるいことをしないためには、まず我慢しなければならない。

かっこわるいことというのは、たいてい、我慢のなさから生まれる。

人は、ほうっておいたらかっこわるくなるものだ。

無精髭みたいに。

 

しかたない、といいたくなるところを、しかたなくない、とふんばる。

それが美意識だともいえる。

いわゆる二枚目。

二枚目って、わたしにとってはハンサムな人ではなくて、

かっこわるいことをしないようにこらえている人。

その人は美意識を持っている。

 

文章を書くときに、わたしが意識するのは、違和感を排除することだ。

それも徹底的に。

これが書きたい、という気持ちは一割でよくて、

あとの九割のエネルギーは、違和感をなくすることに使う。

違和感の排除は、読んでいる人の意識にはおそらく上らない。

あくまでも、わたしにとっての違和感なのだけれども、

徹底して排除することによって、つまりアクが抜ける。

その結果が引っかりの少ない文章ということになるのだと思う。

 

人においても、自分自身の美意識にもとづいて、

違和感を取り除くことを努力している人は、すっきり見えるだろう。

人の場合はアク抜けより垢抜け、か。

かっこいいね、といわれるまでには、

どれほどのかっこわるさを我慢してきたことか。

 

かっこわるさを隠さないことがかっこいい、

という考えかたもあるだろうけれども、

わたしは、甘えてるな、と感じる。

美意識とは、持ったら人生ハードになるもの。

それでも手放さないからかっこいいのである。

お題頂戴エッセイ大喜利⑤ サクマのドロップス

サクマドロップス、あるいはサクマ式ドロップス

会社が異なるらしい。

わたしの記憶のなかでは深緑色の缶に入っている。

それはサクマドロップスのほうらしい。

 

いちばん好きなのから順に、オレンジ、レモン、グレープ、

いちご、メロン、はっか。

てのひらに二つか三つ出して、好きな色のを口に入れて、あとは戻す。

好きな色は戻して第二希望を食べるときもあった。

 

それでもいつかはメロンとはっかばかりになってしまう。

いやいや食べるメロンは、やっぱり好きじゃない味。

口を開けて、うえー、といってみる。

 

はっかは早いうちからおかあさんにあげる作戦を取るのだが、

はっかじゃないのもちょうだいよお、といわれて、

しぶしぶまた缶を振る。

そんなときに限ってオレンジが出てくるのだった。

 

缶のひんやりした手触りと、蓋のあたりから漂う金気の匂い。

深緑色はなんだかかっこわるいように思えた。

サモンピンクのこたつ板の上にのっているのを思い出す。

紺色地のこたつ布団の表面はつるつるしていた。

部屋の灯りは黄色くて、窓には緑のカーテンが下がっている。

 

ドロップスの缶がまるで映写機のように、

あたりの景色を映しだし、空間を再現する。

アパートの六畳の部屋。

そこにいるのは七歳のわたし。

 

レモンのドロップをなめながら、動物の図鑑に引き込まれている。

めずらしい動物のページにいるオカピのことを考える。

キリンと鹿とシマウマの綺麗なところを合わせてつくったみたいな不思議な動物。

夢のなかに住んでいるんだ。

会えたとしたら、それは夢なんだ。

一日じゅう考えていても飽きない。

 

おかあさんがお使いにいこうという。

図鑑を閉じて、ジャンパーを着て、マフラーを巻かれて。

ドロップをもう一つ、おくちに入れていきましょう。

お題頂戴エッセイ大喜利④ さくる流SNSとのつきあいかた

Facebookでアカウントを持って6年あまり。

おおむね楽しんできたが、未然に防げたらよかったなと思うこともいくつかあった。

 

じつをいえば、羽生さくるのアカウントは昨年の始めに一度取り直している。

本名と二本立てにして、仕事とプライベートを分けたのだ。

さくるは仕事で知り合った人、本名は中学高校の同級生や私的につきあいのある人、

というくくりで、一部重なる人たちもいる。

 

投稿する内容は、さくるではライティングコンサルについて知らせたいことや、

一般に公開できるエッセイに近い文章。

本名では近所で撮った花の写真や、同級生同士の交換日記や学級日誌みたいなもの。

 

そもそもFacebookを始めたのは、海外に住む同級生との連絡のためだった。

自分専用のMacBookを買って最初にしたことの一つである。

その後急速に、とくに個人で仕事をするにはFacebookが必須という流れが

やってきて、わたしもそういう使いかたになっていった。

 

Facebookには、やっかませ機能とでも呼びたい機能が満載されている。

いいね!やコメント、コメントへの返信も、

場合によってはやっかませ機能を持つし、

タグ付けなんていう飛び道具もある。

 

最近知ってうなったのは、いいね!してくれた人の「名前を出す」というボタン。

普通は名前が二人ずつくらい出て、ついた順にだんだん上書きされていくが、

このボタンを押すと、特定の人の名前を出しっぱなしにできるのだろう。

なんのために、誰に見せたいの、とボタンに思わず聞いてしまった。

 

わたしにとってFacebookがいちばんしっくりくるのは、

仕事や学びで知り合った話の合う人との語らいの場としての使いかたである。

自由な気持ちで投稿したりコメントしたりできるし、

まだ直接会っていない人とも言葉で親しくやりとりができる。

いつか会える日を夢見て、きょうもタイムラインを辿る。

お題頂戴エッセイ大喜利③ 死ねばいいのに

わたしは一人っ子だから、きょうだい喧嘩はしたくてもできなかった。

ともだちとは喧嘩したら終わりだと思っていた。

きょうだい喧嘩の経験がないから、

喧嘩しても仲直りができるということを知らなかったのだ。

 

「おねえちゃんなんて、しんじゃえ」

漫画やドラマでこんな台詞が出てくると、どきどきした。

ほんとにしんじゃったらどうするんだろう、と思って。

人はときに心にもないことをいうものだとは知らなかった。

 

それはいまでも変わっていない。

自分はただいいたいだけで言葉を発したことがないから、相手もそうだと思う。

いわれたことは真に受ける。

そして、一度そういったのだから、その後もずっとそうなのだと思う。

 

それは、窮屈な考えかただ。

自分から離れて見るとわかる。

言葉は時間ともに薄れたり、時間とともに入れ替わったりもする。

そう前提するほうが自然ではないか。

 

口には出せないと思う言葉であっても、自分のなかでは許してもいい。

それは塊ではなくて、溶けて流れていってしまうものだから。

妹が「しんじゃえ」といってもドラマのなかのおねえちゃんは死ななかった。

妹はただそのとき、そういいたかっただけなのだ。

 

いまわたたしに、すごく憎たらしい人がいて、

心の底から「死ねばいいのに」と思っているのだとしたら、

言葉と自分とを許せばいい。

 

許された言葉は溶けはじめる。溶けきって、心の外へ流れだしていく。

そのときの音が「死ねばいいのに」と聞こえたとしても、鳴ったと同時に消えていく。

 

シネバイイノニ…

 

いわれた人は死ねばいい「のに」それからも生きているだろう。

死ねばいい「のに」死なないのだ。

だからよけいに憎たらしいではないか。

でも、わたしはそういいたいからいってやったのだ。

言葉を許して自分を許せた。

 

シネバイイノニ。ヒトコエナイテキエテイク。

お題頂戴エッセイ大喜利② わたしはここまでどのように神様に導かれてきたか

「お祈りします」

新入生への言葉の最後に院長先生がおっしゃると、

上級生たちが一斉に膝の上で指を組み、目をつむって顎を引いた。

わたしはあわてて真似をした。

 

ミッションスクールの入学式。

講堂いっぱいの生徒750人と壇上の先生方がともに祈る。

それから6年間、わたしたちは毎朝この時間を持つことになる。

いまでも「お祈りします」という声が聞こえたら、反射的にその構えになるのだ。

身についた自然な動作が誇らしくもある。

 

そのように「祈り」を経験してきた者として「神様の導き」とは

「生きている」ということに等しい。

最初の祈りから現在まで、生きてこられたということは、

ひとえに、神様に導かれたから。

そう信じている。

 

こういう大真面目な自分。嘘はない。

ただ、その自分を糖衣するように、

日常を「神様の導き」で楽しむ愉快な自分もいる。

たとえば「紀ノ国屋の神」だ。

 

わたしは国立に越してきて以来23年間、紀ノ国屋スーパーにほぼ毎日通っている。

夕方の6時すぎ、店の玄関の二つめの自動ドアを入ったところで

きょうの晩御飯のおかずを決める。

そして材料を一つずつカートの籠に入れていく。

 

今夜は豚肉の常夜鍋にしようと思ったから、小松菜と豚のしゃぶしゃぶ肉。

するとしゃぶしゃぶ肉が値引きになっている。

また他の日は、台所洗剤のレフィルを買わなくちゃと雑貨の棚に近づくと、

それだけが値引きになっている。

ホットケーキミックスと牛乳と卵とメープルシロップ

四つとも値引き札がついていたこともある。

 

紀ノ国屋に着くまではなにも考えないのがコツといえばコツだが、これはやはり、

紀ノ国屋が大好きなわたしに神が応えてくださっているのだろう。

自動ドアのところで「きょうはこれにしなさい」と

導いてくださっているのかも知れない。

 

値引きになっているものを買うのではなく、買うものが値引きになっている。

神の導きとはそいうものである。

お題頂戴エッセイ大喜利① 「だから夢中なの、韓国宮廷ドラマ!」

(註:このお題は「だから夢中なの、◯◯!」で頂きました。当時連日見続けていた「韓国宮廷ドラマ」を代入して、このタイトルとなった次第)

 

25年間のビデオレンタル歴のなかで、わたしが一度も手をつけたことがないジャンル。

それは韓流だった。

ところがこの夏、わたしは韓国宮廷ドラマに釘付けになっている。

 

きっかけはある方とのチャットだった。

ヨーロッパの修道院の話から韓国の宮廷女官の世界に飛んだ。

ぴんとくるものを感じ、すぐにAmazonプライムにつないで最初に出てきたのが

チャングムの誓い」。

これかな、と見始めてから二週間。

チャングムの誓い」が終わって、韓流ドラマの先輩に薦められた「トンイ」に移行。

チャングム54話の後のトンイ60話という長丁場。現在の残り23話。

 

修道院と宮廷女官の世界の共通点は、イエスまたは王という、

絶対的な男性存在と疑似婚姻関係を結んで、女性だけの集団に暮らすことにある。

そういう構図に女性の底意地を見るのは、女子校育ちのわたしには新鮮だ。

女子校には女の世界はない。

人気者の男子がいないからだ。

エスも王もある意味人気者の男子。

その人のいるところ、必ずや女子同士の競い合いや争いが起こる。

さらには陰謀が渦巻く。

 

この二つのドラマは陰謀につぐ陰謀で息つく暇もない。

次の回、また次の回、と夢中になっているうちに、わかってきたことがある。

 

ある女官は「家の名誉を守るため」に陰謀をめぐらす。

ある側室は陰謀によってその座を得ながら、

王の愛が他の女性に移ったときに衝撃を受ける。

 

女官は、自分こそが家の名誉を汚していることに気づかず、

側室は自分が王に愛される心根を失っていることを知らない。

陰謀は自滅への一本道。

 

といって、正しい道をゆくヒロインが素晴らしいのでもない。

陰謀あってこその正義だからだ。

 

個人においては、陰謀と正義は自我の二つの顔ともいえるだろう。

そのどちらでもない花のような心を自分としたい。

ここまでの韓国宮廷生活で得たわたしの気づきである。

お題頂戴エッセイ大喜利について

田舎や郷里を持たない東京者だし、会社勤めもしたことがないし、

お盆やお盆休みと無縁に生きてきた。

 

今年のお盆もとくにいくところはなく、誰かがくるわけでもない。

といって、なんにもしないで終わっちゃうのはつまらないなあ、と思って、

以前から考えていた「お題頂戴エッセイ」を挑戦することにした。

 

これまでの経験で、エッセイは、自分で思いついたテーマなら、なんでも書ける。

自分の周りの目に映るものすべてから、たったいま、なにをひっぱってきても、

800文字は書く自信がある。

でも、それは、自分が自分の目や心で選んでいるからだ。

 

それに、自分で決めたテーマでは、

自分の肩凝りを痛いところまでマッサージできないのと同じで、

心が痛む深さまで書くことをうまく避けてしまう。

誰か自分以外の人がテーマや題を出してくれたなら、

そこのところを逃げずに、自己満足で終わらないものが書けるのではないか。

人様に出されてこその、題材のランダム性だ。

 

そう思い、いつか、お題を頂戴して寄席の大喜利のようにエッセイを

書いてみたいと思っていたのだ。

さっそくに、Facebookの友達に呼びかけてみた。

自分のためのお願いというのは勇気がいるものだけれど、ここはがんばった。

連続で書くことに意味があるとも思っていたから、

10のテーマで十夜続けてそれぞれ800文字で書ききることも約束して。

 

はたして、優しいお方はいるもので、

題やテーマをつぎつぎに寄せてくださるのだった。

昨夜ついに10本完結。

涼しすぎるお盆から、夏がようやく戻るまでの10日間。

ひさしぶりに、自分のことに集中できた達成感がある。

 

題やテーマを出してくださったみなさんへの感謝の気持ちを込めて、

こちらのブログでも、これから10日間、一つずつ公開していこうと思う。

 

ブログ読者のみなさんも、どうぞよろしくおつきあいください。

さくるの大喜利、始めます。