suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

わたしたち

おととい、ふと見た「五時に夢中」で、内科医で医事評論家のおおたわ史絵さんが
「わたしは『週刊朝日』に投稿をしたことからこんな仕事をするようになった」
というのを聞き、あ、同じだ、と思った。
 
彼女の場合は、きっと医師になってから、
なにか思うことがあって投稿されたのではないかと想像した。
わたしは15歳のときに、学校ではやっていたなぞなぞをタウン欄に投稿したのだった。
でも、きっかけとして同じ週刊誌の名前が出てきたのでとても親しみを感じた。
 
と同時に、この人綺麗になったなあ、とも思った。
ホンマでっかTV』はほぼ欠かさず見ていて、
彼女の言葉や表情に奥のほうからの優しさを感じていたのだが、
それとは別に、輝きが見えたのだ。
 
それで、きょうになって彼女について検索してみて
昨年夏の『徹子の部屋』の動画にゆきついた。
薬物依存だったおかあさんから受けた虐待を語っていた。
 
中学1年のときに、同級生の男の子から
「もしも魔法使いが願いを叶えてくれるとしたらなにがいい?」と聞かれて
「安心できる場所が欲しい」と答えたのだそうだ。
 
これもまた「わたしと同じ」だった。
わたしも家にいながら「帰りたい」と思っていた。
母は暴力をふるったわけではなかったが、
7歳からはわたしは家でほっとしたことがなかった。
 
彼女のいまの幸せな様子にもらい泣きしながら、
わたしは彼女の優しさを感じとっていた意味を理解した。
去年の夏の告白をいま知ったのも『週刊朝日』に反応したのも、
そもそも『五時に夢中』を見たのも、その意味によって導かれている。
 
母の娘であるわたしたちは、同じだ。
母親の不全を生きてきたわたしたち。
さらに多くのわたしたちがいる。
 
彼女が医師になったのは、開業医であるおとうさんが大好きだったから、といっていたが、
おかあさんを助けたかったから、という理由もあったのではないだろうか。
これもわたしの想像だけれど。
 
おかあさん自身を助けられなかったとしても、わたしたちは自分と、
自分と同じ誰かを助けることができる。
それは、時間は前後したとしても、おかあさんを助けることと同じなのだと思う。