「エリザベート」鑑賞
劇場と違って、いろいろ話しながら見られるところがいい。
会話の内容は贔屓スターの小ネタ(この衣装かわいいね、とか、色がいいんだよね、とか、これは二番手の宿命だね、とか。男役二番手の宿命については、いつか詳述しましょう)以外は、もっぱら、エリザベートの自分勝手さと、彼女を愛する二人の男性(黄泉の帝王トートと、夫のオーストリア国王フランツ)の気の毒さ。
おかあさんがいじめるのお、と夫にすがり、僕は君の味方だけどおかあさんの意見は聞いてね、といわれて、もう死にたい、と。
そして、わたしは鳥のように自由になるの!と歌いあげるわけだけれど、自我があるなら、5時にちゃっちゃと起きたらんかい、とわたしは浜ちゃんになって突っ込んでいた。
ちゃっちゃと起きて、おかあはんを見返したらんかい。
自由って、人のいうことを聞く聞かないとは関係ない。
支配的な人がいたとして、その人のいう通りにはならないわ、というのは、自由の宣言でもなんでもない。
5時に起きて、歯も真っ白に磨いて、ぴしーっと身支度して、お姑さんにぐうの音も出させない、という挑戦のしかたもあるのだよ。
そして、娘と二人で、もっとも否と叫んだのは、エリザベートがこどもたちの教育を自分に任せてくれと夫フランツに申し入れ、さもないとわたしはあなたの元を去る、と脅したことだった。
しかし、そこまでして自分の保護下に置いたはずのこどもたちを、実際には顧みず、旅に出てばかり。
少しも愛情を掛けない。
その結果、皇太子ルドルフは、革命に加担した末に、自殺してしまう。
ここに至って、ようやく自らの罪を知るエリザベート。
夫に申し入れたのは、こどもたちを取り返したかったのではなく、姑との闘いに勝ちたかっただけなのではないか。
そして、叶わなければ自分をあなたから取り上げるとは、自分自身を餌に夫を思い通りにしようとするものいい。
思い通りにはなるが、自分の尊さへの裏切りもまた返ってくるのだ。
そんなことをいうなら別れる、これをしてくれないなら別れる、という恫喝は、自分を愛していると思う相手に対して、犯してしまいがちな過ちではある。
愛されている自分をないがしろにする行為であることに気づかないからだ。
一事が万事というくらいに、自分勝手かつ無自覚なエリザベートだが、トートとフランツは翻弄され続ける。
ともに歩いていこう、僕にはきみが必要なんだ、というフランツ。
お前を自由にできるのは俺だけだ、と自信満々に見えるトート。
どちらの心も震えている。
女性は、男性の心を包んで愛することが できる。
自由は自分の内側にあり、すべての選択を可能にしている。
わたしなら、生きている間はフランツを支え、死んでいい時がきたら、トートに身を任せる。
あれ?
ちょっとしっくりこないかな。
トートに専心するかも知れない。
トートを生の世界に招きいれて、時がくるまで待たせよう。
あなたは永遠の命を持った人なんだから、少しくらいいいでしょ、って。