羽生さくるができるまで ②アルバイト時代
A日新聞社編集局、煙草のけむりがもうもうと立ちこめる週刊A日編集部で、わたしは編集者という人に初めて会いました。
小柄でにこやかな、当時のわたしから見たらおじさん。
彼は、もうすぐ担当者が代わるから、とその人を紹介してくれました。
やはり小柄で、ざんばらした若白髪に丸い眼鏡、和風で端正な顔立ちの、いまでいうならジブリのアニメのキャラクターのような、おにいさんでした。
彼はにこり、と笑いました。
「よろしくお願いします」
初めてリアルに聞く、関西訛り。
とても知的に響いたのが忘れられません。
高校に入る前後から、わたしは筒井康隆さんのSF小説を読みふけっていました。
彼の作品のなかに、ことわざをパロディしたり、変形させていくくだりがあります。
もともとことわざが、辞典を愛読するほど好きだったわたしは、自分でもやってみたくなり、たちどころに20個くらい作ってしまいました。
いまも覚えているのは
「河童の質流れ」
「覆水盆がはよくりゃはよ戻る」
「色の白いは一難去ってまた一難」
「寄らば大樹の陰で斬るぞ」
あたり。
これをまた、自主的に、といえば聞こえはいいけれど、勝手に、上記若白髪のおにいさん編集者に送りつけました。
古典文学好きの彼の感覚に訴えたのか、ことわざパロディは即1ページの企画となって掲載されました。
その後2回もアンコールされ、さすがのわたしももうネタ切れになったものでした。
ちょうど別の企画で編集部に呼ばれていた『ビックリハウス』の編集長が、もらって帰った本誌でこのことわざを読み、自分のところでもやってもいいかとお伺いを立ててきたそうです。
おにいさん編集者が、どうぞご自由に、と答えた結果、読者投稿の人気ページとなり、「ご教訓カレンダー」が生まれたのです。
あれはもとはといえば、わたしの「河童の質流れ」。
いえ、ほんとうのもとはといえば、筒井康隆さんですね。
その後も高校の間は、編集部のおにいさんやおじさんたちにパフェやケーキをご馳走になるために、文字通りときどき遊びにいっていました。
そして、大学に入る直前、おにいさん編集者が、後に伝説となった「デキゴトロジー」というページを始めます。
わたしも大学生チームに組み入れられ、ネタ探しを始めました。
ところが、わたしはどうもネタ探しが不得意だったのです。
ただ飯食いのそしりを受け、ついに、別の編集者にトレードに出されました。
彼はおにいさんより少し年上で、時間を掛けてコツコツ資料を集め、緻密な記事を書き上げる人でした。
わたしは、彼の資料集めの助手になりました。
大学1年の夏休み、連日国会図書館に通い、職員の厳しいチェックをくぐり抜けながら、ほんとうならできない一冊まるごとコピーを敢行。
大宅壮一文庫にも通って、雑誌のコピーをたくさん取ってきました。
わたしは資料集めには適性があったようでした。
このあと、大学4年間と卒業後の5年間を通じて、芸能ページのインタビュー、婦人欄の投書のリライト、連載小説のあらすじ、女性誌のまとめコラム、似顔絵塾の塾長秘書、別冊の取材と編集、対談のアシスタントと原稿起こし、など、さまざまな仕事をさせていただきました。
OL用語集という、デビュー作の前身になるコラムを担当していたこともあります。
タイトルは「OLコンサイス」と自分でつけました。
この間に、新聞社は初めて訪れた有楽町から築地に移転。
15歳から27歳までの12年間、ほんとうにお世話になりました。
わたしのライター/エディターとしての基礎は、すべて、この編集部で学ばせていただいたものです。
いわゆるメジャーな文化人の方々や、芸能人の方々とも、仕事をする者として関わらせていただき、まったく夢のような時代を過ごしました。
吉行淳之介さんにインタビューをして150字の原稿に起こしお送りすると「よくまとまっています。これでOK」と書き添えて返送してくださいました。
直しは助詞が一つと、なんとかかんとかだね「ぇ」を「え」にするようにという指示だけ。
以来わたしは、助詞をダブルチェックしながら書き、音引きは必ず大きな文字でします。
吉行さんからは、物書きとして、一生の宝物をいただいたと思っています。