suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

羽生さくるができるまで ②アルバイト時代

A日新聞社編集局、煙草のけむりがもうもうと立ちこめる週刊A日編集部で、わたしは編集者という人に初めて会いました。

小柄でにこやかな、当時のわたしから見たらおじさん。

彼は、もうすぐ担当者が代わるから、とその人を紹介してくれました。

やはり小柄で、ざんばらした若白髪に丸い眼鏡、和風で端正な顔立ちの、いまでいうならジブリのアニメのキャラクターのような、おにいさんでした。

彼はにこり、と笑いました。

「よろしくお願いします」

初めてリアルに聞く、関西訛り。

とても知的に響いたのが忘れられません。

 

高校に入る前後から、わたしは筒井康隆さんのSF小説を読みふけっていました。

彼の作品のなかに、ことわざをパロディしたり、変形させていくくだりがあります。

もともとことわざが、辞典を愛読するほど好きだったわたしは、自分でもやってみたくなり、たちどころに20個くらい作ってしまいました。

 

いまも覚えているのは

「河童の質流れ」

「覆水盆がはよくりゃはよ戻る」

「色の白いは一難去ってまた一難」

「寄らば大樹の陰で斬るぞ」

あたり。

 

これをまた、自主的に、といえば聞こえはいいけれど、勝手に、上記若白髪のおにいさん編集者に送りつけました。

古典文学好きの彼の感覚に訴えたのか、ことわざパロディは即1ページの企画となって掲載されました。

その後2回もアンコールされ、さすがのわたしももうネタ切れになったものでした。

 

ちょうど別の企画で編集部に呼ばれていた『ビックリハウス』の編集長が、もらって帰った本誌でこのことわざを読み、自分のところでもやってもいいかとお伺いを立ててきたそうです。

おにいさん編集者が、どうぞご自由に、と答えた結果、読者投稿の人気ページとなり、「ご教訓カレンダー」が生まれたのです。

あれはもとはといえば、わたしの「河童の質流れ」。

いえ、ほんとうのもとはといえば、筒井康隆さんですね。

 

その後も高校の間は、編集部のおにいさんやおじさんたちにパフェやケーキをご馳走になるために、文字通りときどき遊びにいっていました。

そして、大学に入る直前、おにいさん編集者が、後に伝説となった「デキゴトロジー」というページを始めます。

わたしも大学生チームに組み入れられ、ネタ探しを始めました。

 

ところが、わたしはどうもネタ探しが不得意だったのです。

ただ飯食いのそしりを受け、ついに、別の編集者にトレードに出されました。

彼はおにいさんより少し年上で、時間を掛けてコツコツ資料を集め、緻密な記事を書き上げる人でした。

わたしは、彼の資料集めの助手になりました。

大学1年の夏休み、連日国会図書館に通い、職員の厳しいチェックをくぐり抜けながら、ほんとうならできない一冊まるごとコピーを敢行。

大宅壮一文庫にも通って、雑誌のコピーをたくさん取ってきました。

わたしは資料集めには適性があったようでした。

 

このあと、大学4年間と卒業後の5年間を通じて、芸能ページのインタビュー、婦人欄の投書のリライト、連載小説のあらすじ、女性誌のまとめコラム、似顔絵塾の塾長秘書、別冊の取材と編集、対談のアシスタントと原稿起こし、など、さまざまな仕事をさせていただきました。

OL用語集という、デビュー作の前身になるコラムを担当していたこともあります。

タイトルは「OLコンサイス」と自分でつけました。

 

この間に、新聞社は初めて訪れた有楽町から築地に移転。

15歳から27歳までの12年間、ほんとうにお世話になりました。

わたしのライター/エディターとしての基礎は、すべて、この編集部で学ばせていただいたものです。

いわゆるメジャーな文化人の方々や、芸能人の方々とも、仕事をする者として関わらせていただき、まったく夢のような時代を過ごしました。

 

吉行淳之介さんにインタビューをして150字の原稿に起こしお送りすると「よくまとまっています。これでOK」と書き添えて返送してくださいました。

直しは助詞が一つと、なんとかかんとかだね「ぇ」を「え」にするようにという指示だけ。

以来わたしは、助詞をダブルチェックしながら書き、音引きは必ず大きな文字でします。

吉行さんからは、物書きとして、一生の宝物をいただいたと思っています。