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小学校5年生と6年生のとき、学年にT先生という男の先生がいらした。
算数と体育が専門らしく、筋肉質で、いつもホイッスルを首から下げてきびきびしていた。
5年生と6年生は持ち上がりなので、1組のわたしは3組のT先生に教わることはなかったが、学年合同体育だとか、運動会の練習、遠足、修学旅行、社会科見学などではお世話になった。
お世話になったし、T先生のほうがやたらと、といってはなんだけど、ずいぶんちょっかいを掛けてきた。
わたしは体育がすごく苦手だったし、乗り物に弱かったから、バスを使う遠足や修学旅行、社会科見学には、できればいきたくないくらい、消極的だったのだ。
当時、わたしの母はPTAで役員をしていた。
昭和時代の下町のことで、役員会ははっきりいって派手、先生方ともよく飲みにいっていた。
頭の回転のすこぶる早い母と、明るくマッチョなT先生は、とても気が合ったようだった。
いま思うと、陰で二人は話を通じさせていたのだろう。
日光への修学旅行、校庭からバスが出発するとき、T先生がわたしのところにきて「O田はいちばん後ろに座りなさい」という。
わたしはそれだけで青ざめた。
いちばん後ろなんていちばん揺れそう、いちばん酔いそう...
はたして日光いろは坂。
大柄な男子にはさまれたわたしは、右へ倒れ、左へ倒れ、前にしがみつく男子のお尻の後ろに倒れたりして、みんなできゃあきゃあ大騒ぎ。
ちっとも酔わなかったのだ。
T先生の作戦成功というところ。
小学校最後の年が明けて、6年生の1月。
わたしは中学受験を控えていた。
あすから数日は入試のために休むというその日に、T先生はわたしを呼びとめた。
「これはまだ誰にもないしょだよ。先生のとこにな、きのう女の子が生まれたんだ」
「わー、赤ちゃん生まれたの、おめでとうございます」
「それでな、先生はその子の名前をもう決めた」
「なんていう名前」
先生が答えたのは、わたしと同じ名前だった。
文字もいっしょだという。
わたしは聞き返さずにいられなかった。
「ほんとに。ほんとに決めたの」
「決めたよ。O田みたいに聡明で優しい子になって欲しいからな」
「だいじょぶかなあ」
「なにいってんだよ」
二人で笑いあう。
わたしは、本気で、先生は取り返しのつかないことをしようとしているのでは、と心配したのだ。
「だからっていうわけでもないけどさ、お前、試験がんばってこいよ」
「うん」
「いい知らせ待ってるよ」
自分が親になって、こどもの名前をつけるという機会は人生に数回しかないことを身をもって知った。
その一回に、T先生はわたしの名前を使ってくれたのだった。
娘さんはどんな女性に育ったのだろう。
娘さんを呼ぶ何百回かに一度、あるいはなんでもないときかなんかにふと、T先生はわたしのことを思い出してくれていただろうか。
T先生とお会いしたのは中学1年生のとき、趣味として描かれていた油絵の個展におじゃましたのが最後だった。
先生のクラスにいた男の子のHくんと二人でいった。
Hくんは体育も得意でオール5、背が高くてハンサムで、T先生の自慢の生徒だった。
T先生はとても喜んで、わたしたちを画廊の近くのフルーツパーラーに連れていってくれた。
ショートケーキとオレンジジュースとハーフカットのグレープフルーツ。
そんなに食べられないというのに、テーブルいっぱいに二人分並べて、自分はコーヒーだけ飲んで、にこにこにこにこしていた。