suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

お題頂戴エッセイ大喜利② わたしはここまでどのように神様に導かれてきたか

「お祈りします」

新入生への言葉の最後に院長先生がおっしゃると、

上級生たちが一斉に膝の上で指を組み、目をつむって顎を引いた。

わたしはあわてて真似をした。

 

ミッションスクールの入学式。

講堂いっぱいの生徒750人と壇上の先生方がともに祈る。

それから6年間、わたしたちは毎朝この時間を持つことになる。

いまでも「お祈りします」という声が聞こえたら、反射的にその構えになるのだ。

身についた自然な動作が誇らしくもある。

 

そのように「祈り」を経験してきた者として「神様の導き」とは

「生きている」ということに等しい。

最初の祈りから現在まで、生きてこられたということは、

ひとえに、神様に導かれたから。

そう信じている。

 

こういう大真面目な自分。嘘はない。

ただ、その自分を糖衣するように、

日常を「神様の導き」で楽しむ愉快な自分もいる。

たとえば「紀ノ国屋の神」だ。

 

わたしは国立に越してきて以来23年間、紀ノ国屋スーパーにほぼ毎日通っている。

夕方の6時すぎ、店の玄関の二つめの自動ドアを入ったところで

きょうの晩御飯のおかずを決める。

そして材料を一つずつカートの籠に入れていく。

 

今夜は豚肉の常夜鍋にしようと思ったから、小松菜と豚のしゃぶしゃぶ肉。

するとしゃぶしゃぶ肉が値引きになっている。

また他の日は、台所洗剤のレフィルを買わなくちゃと雑貨の棚に近づくと、

それだけが値引きになっている。

ホットケーキミックスと牛乳と卵とメープルシロップ

四つとも値引き札がついていたこともある。

 

紀ノ国屋に着くまではなにも考えないのがコツといえばコツだが、これはやはり、

紀ノ国屋が大好きなわたしに神が応えてくださっているのだろう。

自動ドアのところで「きょうはこれにしなさい」と

導いてくださっているのかも知れない。

 

値引きになっているものを買うのではなく、買うものが値引きになっている。

神の導きとはそいうものである。