suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

お題頂戴エッセイ大喜利③ 死ねばいいのに

わたしは一人っ子だから、きょうだい喧嘩はしたくてもできなかった。

ともだちとは喧嘩したら終わりだと思っていた。

きょうだい喧嘩の経験がないから、

喧嘩しても仲直りができるということを知らなかったのだ。

 

「おねえちゃんなんて、しんじゃえ」

漫画やドラマでこんな台詞が出てくると、どきどきした。

ほんとにしんじゃったらどうするんだろう、と思って。

人はときに心にもないことをいうものだとは知らなかった。

 

それはいまでも変わっていない。

自分はただいいたいだけで言葉を発したことがないから、相手もそうだと思う。

いわれたことは真に受ける。

そして、一度そういったのだから、その後もずっとそうなのだと思う。

 

それは、窮屈な考えかただ。

自分から離れて見るとわかる。

言葉は時間ともに薄れたり、時間とともに入れ替わったりもする。

そう前提するほうが自然ではないか。

 

口には出せないと思う言葉であっても、自分のなかでは許してもいい。

それは塊ではなくて、溶けて流れていってしまうものだから。

妹が「しんじゃえ」といってもドラマのなかのおねえちゃんは死ななかった。

妹はただそのとき、そういいたかっただけなのだ。

 

いまわたたしに、すごく憎たらしい人がいて、

心の底から「死ねばいいのに」と思っているのだとしたら、

言葉と自分とを許せばいい。

 

許された言葉は溶けはじめる。溶けきって、心の外へ流れだしていく。

そのときの音が「死ねばいいのに」と聞こえたとしても、鳴ったと同時に消えていく。

 

シネバイイノニ…

 

いわれた人は死ねばいい「のに」それからも生きているだろう。

死ねばいい「のに」死なないのだ。

だからよけいに憎たらしいではないか。

でも、わたしはそういいたいからいってやったのだ。

言葉を許して自分を許せた。

 

シネバイイノニ。ヒトコエナイテキエテイク。