suckle nouveau 2017

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

【御局】(お・つぼね)

大学生のころから敬愛している立川談志師匠。

七回忌を前に『広辞苑』の新版に【立川談志】の項目が入ったことをニュースショウで知った。

 

師匠、よかったね、と部屋に飾ってある高座の写真に話しかけたら、よせやい、と照れてる様子。

そのあと、本屋で広辞苑を見てこいよ、という。

まだ新版は出ていないのは師匠もご存じで(すみません、チャネリングな話になってます)見てこいというのは、わたしがデビュー作で世に送り出した「お局さま」という言葉のこと。

 

雨が降っていたけど、大学通りの書店へ。

地下に下りて辞書の棚から『広辞苑』をうんとこさ、と取り出した。

恥ずかしながら辞書を引くのは久しぶり。

でも勘は鈍っていなかった。

さらっと見つけました【御局】(お・つぼね)。

その③に曰く、

 

俗に、勤続が長く職場で隠然たる影響力を持つ女性を揶揄していう語。

 

「俗に」じゃないでしょ、と爆笑。

しかし「隠然たる影響力を持つ」には感心。

広辞苑』に上から目線な自分に満足。

 

談志師匠が見てこいよ、といってくれたわけがわかった。

この第六版は10年前に改訂されたものらしく、その前もまた10年前。

【御局】その③は、いつから載っているのかな。

 

 

 

 

保健室のBB先生

中学高校と6年間通った女子校の保健室は、体育館の建物の1階にあった。

養護の先生はBB先生。

当時はたぶん40代で、双子の男の子と女の子を育てていらした。

小柄で、洒脱な雰囲気を漂わせたBB先生の保健体育の授業は,

毎回爆笑の渦だった。

 

わたしが覚えているのは、先生推奨の「鬼太郎袋」だ。

小さな紙袋にビニール袋を重ねてたたんで輪ゴムで留めて、

いつもバッグの隅に入れておきなさい、とおっしゃった。

急な吐き気でゲゲゲときたら使うように、と。

 

不肖の生徒は、それを携帯することはなかったのだが、

10数年後息子が生まれて、おなかの風邪を引いたとき、

悲惨な看病期を乗り越えるため

鬼太郎風邪」と呼びかえて気を紛らせたものだ。

 

これは最近になってから、同窓生に聞いた話。

彼女は在校中、心身ともに疲れることがよくあって、

保健室でたびたび休ませてもらっていた。

BB先生は、彼女の背中をさすりながら

「いかなきゃならないところはどこもないし、

 やらなきゃならないこともなにもないのよ」

とおっしゃったそうだ。

 

ああ、わたしも保健室にいけばよかった、と心から思った。

高校2年の秋、めまいがして教科書が読めなくなり、

2か月ほど休んだことがあったのだ。

そんなにひどくなる前に、保健室でBB先生のこの言葉を聞きたかった。

 

 いかなきゃならないところはどこもない。

 やらなきゃならないことはなにもない。

 

中学受験をくぐり抜けてきたわたしたちは、

両親の、とくに母親の期待に応えられる力を持っていた。

だからこそ、つらくなった。

徹底したキリスト教教育を受けたことで、

よけいに、母親の言動と自分の心が噛み合なくなることも、わたしは経験した。

 

そんな「わたしたち」を長いあいだ、たくさん見てきたBB先生の言葉には、

真実の慰撫がある。

いまでも遅くないな、と思って、先生の声をまねて、ときどきつぶやいている。

お題頂戴エッセイ大喜利⑫ 居場所

夏休み明け、学校にいきたくないこどもたちのために、

動物園や図書館が「どうぞ逃げていらっしゃい」といってくれているらしい。

思い詰めて死を選ぶ子が最も多くなるという9月1日。

緊急避難先はいくつあってもいいだろう。

 

ただ、心配になったのは、とくに動物園の場合、

逃げてきたこどもたちを迎えてくれるスタッフがいるのかどうか、

一人できた子が帰宅するまでの安全策は考えられているのかどうか、だ。

 

動物を見たり本を読んだりして、

学校だけが世界のすべてではない、ということを知り、

生きていく力を取り戻せたら、それは素晴らしい。

動物園も図書館も、その可能性を提供できる場所には違いない。

しかし、学校にいきたくないこどもたちを「いらっしゃい」と招くのは、

あくまでも人であって欲しいのだ。

 

学校にはいきたくないけれど、家にもいたくない。

行き場がない、居場所がない。

そんなこどもたちに必要なのは、場所ではなく、人だ。

 

先生やともだち、親や他の家族。

そのうちの誰か一人でも、その子にとって安心できる相手になっていれば、

行き場はあるし、居場所はある。

つまり「居場所」というのは「場所」ではなくて「人」なのだ。

 

その人がいる場所なら、どこでもその子の居場所になる。

安心できる人がいないなら、どんなに素敵な場所も居場所にはなり得ない。

 

なにがあるから、ではなくて、誰かがいるから、そこにいたい。

その誰かが、ここにいていいんだよ、といってくれるから、そこにいられる。

 

「一人でいたい」と思う子だったとしても、

またそんなときがあっても、

安心できる誰かがどこかに、確かにいることが大事だ。

 

一人の、親として、大人として、女性としても、

そのように存在していたいと思う。

お題頂戴エッセイ大喜利⑩ 線香花火

8月のある夕方、まだ明るい時間に帰宅したときのこと。

マンションの前のガレージで、小学生の女の子が、

おとうさんおかあさんと手花火で遊んでいた。

横にバケツを置いて。

弾ける音と、煙と、匂い。

花火とあたりとのコントラストはまだ淡くて、それが微笑ましかった。

 

暗くなるのが待てない。

わたしのこどもたちもそうだった。

ママもういいよね、もう花火やってもいいよね。

まだ明るいんじゃないの、と答えても、

またすぐに、もういいでしょ、といってくるのだ。

 

根負けして、チャッカマンとお砂場のバケツを出してやる。

マンションの部屋は1階だったので、テラスで遊べた。

きょうだいで花火ができるのは楽しそう。

二人の様子を見るのがうれしかった。

 

わたしも小学校の低学年の頃には、

明るいうちから花火を近くの公園に持っていったものだ。

夏が近くなると、七の日の虚空蔵様の縁日に花火屋さんがくる。

台の細かい仕切りのそれぞれに花火が並べてあり、

好きなのをザルに取って、おじさんにお勘定してもらうのだ。

 

わたしがよく買ったのは、

ピンク色の軸に銀色の火薬がついたのと、線香花火だった。

ピンク色のは、火花がすすきのように落ちていくのが綺麗だった。

赤紫と黄色の紙がこよりになった線香花火は、

じっと見つめていられるのが気に入っていた。

 

最初にできる火の玉の大きさが決め手。

でも、大きい大きい、と喜んでいるとそのまま落ちてしまったりもする。

あの残念感は独特だ。

今回は無事に火花が出始める。

ぱぱぱ、ぱぱぱ、というリズムが心地よい。

目をきゅっとつむって残像を見て、目を開いて火花を見て、を繰り返す。

 

静かになって終わったと思うと、

ち、ちちち、とまた出てくるのが線香花火のもののあはれ

小さな滴が流れたら、最後はちゅっ、と落ちて暗くなる。

花火の終わりは夏の終わり。

また来年ね。

お題頂戴エッセイ大喜利⑨ 想像力

自分の想像力について、初めて自覚したのは11歳。

なにげなく見ていた教育テレビの通信高校講座の現代国語で

志賀直哉の「網走まで」の朗読を聴いたときだった。

 

冒頭の上野駅の改札の描写。

大きな荷物を口を曲げてひっぱる人がいる、という一節で、見たこともない、

まして遠い時の向こうの上野駅のイメージが内側から立ち上がった。

自分もそこにいた。乗客の一人になって、

主人公の後ろから改札を通っていくところだった。

 

言葉による描写の力は、読む者の想像力を呼び覚まし、強化する。

その想像力は次に出会う言葉をイメージさせ、さらに自らを成長させる。

とくに若い時期の読書体験は、想像力を分単位で伸ばしていくものだ。

質も量もともに必要だろう。

 

しかし、想像力を育てる手段は読書には限らない。

それぞれが自分の感覚に合ったものを選びながら、

他にも触れて補完していくのが望ましいと思う。

 

わたしの場合は「網走まで」から始まって、言葉から映像を立体的に、

また空間ごとイメージする想像力を鍛えてきたようだ。

人の話を聞いているときにも、それが働く。

笑いあえる会話のときには楽しさが三倍増。

聞きたくなかった話を聞いたときが悩ましい。

一度立ち上がってしまったイメージはなかなか消えてくれないからだ。

想像力のスイッチがあって、入れたり切ったりできるといいのに、

と思わずにはいられない。

 

文章を書くときには、考えるより速いくらいのスピードで言葉を出していくので、

想像力をどのように使っているか、自分ではわかりにくい。

ただ、自分のなかにある言葉以前のものを、

言葉に変えて相手に届けるためには、

理解のプロセスを想像する力が大切なのは確かだ。

 

伝えたいのは、言葉ではなく言葉になる前のなにか。

相手の心に言葉を溶かし込む過程をイメージしながら書いている。

お題頂戴エッセイ大喜利⑧ 神様の恩寵や計らいの不思議について

21歳のとき、わたしは立川談志師匠にファンレターを書いた。

すぐにお返事をくださり、末広亭の楽屋でお目にかかることに。

それからずっとかわいがってくださった。

 

母は、わたしが赤ん坊のとき、

大井町のグランドキャバレーで社交ダンサーとして働いていた。

あるとき、そのキャバレーに人気の二つ目・柳家小ゑん

後の談志師匠が漫談を聴かせにきた。

トイレから出てきた小ゑんちゃんに母がおしぼりを差し出すと、

彼は照れて「俺にはそんなことしなくていいんだよ」といったそうだ。

 

数年前、ある大学病院のレストランに母と入ったときのこと。

師匠が亡くなった話をして母は泣いた。

わたしが先に立ってレジで会計をした。

後からきた母は

「いま隣にいたご婦人が『談志さんが好きなのね。大丈夫。

 あの人はすぐに生き返ってくるから』といってくれたの」

とまた泣いていた。

ご婦人とは、粋筋の方とおぼしき年配の女性だった。

 

いまわたしの部屋には、師匠からいただいたハガキと

師匠の高座の写真が飾ってある。

その写真が喋ること喋ること。

いつもわたしを励ましてくださる。

生き返ってくるというご婦人の言葉はほんとうだった。

そもそもあの方は、神の御使いだったのかも知れない。

 

わたしが手紙一本で師匠に会えたのは、

母からの縁を考えると、発端ではなくて、第二章の始まり。

いま娘があのときのわたしの年齢になった。

師匠は二人で暮らすこの部屋にもいてくださる。

物語は終わることがない。

 

初めて会いにいったとき、

師匠はタキシードの上着を脱いでドレスシャツ姿だった。

母とキャバレーのトイレの前で話したときと

同じスタイルだったのではないだろうか。

それを思うとまた涙があふれる。

 

神の恩寵は限りなく、計らいは人智を超える。

談志師匠の存在がわたしにそれを証している。

こんなに大きいのに、これはまだ一部なのだ。

お題頂戴エッセイ大喜利⑪ FB友達について

息子が歩くようになって、最初のうちはわたしも近所の公園に連れていった。

まずはお砂場。

他の子と当然、おもちゃの取り合いになる。

その子たちのおかあさんはいう。

「おともだちに貸してあげなさい」

「おともだちと仲よくね」

 

おともだち、とわたしは心のなかで繰り返す。

いま会ったばかりなのに。

そのうち息子がその子の顔のまんなかをぎゅーっと握ってしまったりする。

居たたまれなくて、公園にはいかなくなった。

息子は電車が好きだったので、電車を見せたり乗せたりして日々を過ごした。

 

Facebookの「友達」について考えると、あのお砂場の「おともだち」を思い出す。

わたしと「友達」になってくれている人たちについて、

そう思っているわけではなくて、言葉遣いの問題として。

 

きょう会った人と「Facebookで繋がりましょう」といって

「友達リクエスト」をしあう。

会ったことがない人とも「友達」になる。

Facebookの」という枕詞は外せない気がする。

 

他の言葉にいい換えられないだろうか。

「フレンド」「メイト」「メンバー」「バディ」「ガイ」…

片仮名になるな、どうしても。

 

「友達」という言葉を遣うとき、わたしは「ともだち」と書く。

「達」を「たち」とは読みたくないという好みと

「ともだち」の音を大事に思うからだ。

 

人生の最初にできたともだち。わたしは4歳で、彼女は一つ年上だった。

二人で交わした「ともだち」という言葉の響き。

生涯持っていたい。

 

目を見て話して、いっしょに笑う。

わたしの「ともだち」はそんな人たち。

Facebookで「友達」になった人たちからも「ともだち」は生まれる。

以前から「ともだち」だった人ともFacebookで「友達」になることがある。

どちらの矢印からも、楽しさと和やかさ、温かな気持ちが溢れるといい。