羽生さくるができるまで ①投稿魔少女時代
スマートフォンも携帯電話も、パーソナルコンピュータもワードプロセッサーもなかった昭和40年代。
自分の名前や文章が活字になるということは、まぶしい憧れでした。
とくに、言葉と文章と活字に魅せられたこどもにとっては。
わたしの家では、父がA日新聞を取っていました。
祖父の代から読んでいるから、という理由だったようです。
漢字がだいたい読めるようになった小学校の4年生くらいから、わたしは新聞にも耽溺しました。
夕刊が届くとすぐに読んでしまい、母に、おとうさんが先、とよく叱られていたのを思い出します。
小学校5年生の夏、朝刊の東京版で、早乙女貢さんによる東京大空襲についての連載が始まりました。
わたしはぜんぶ読み、連載終了後の感想特集も読んで、それについての感想を自主的に東京版宛てに送ったのです。
最初に書いたものをなくしてしまい、もう一度書き直したせいで、よりまとまってどうやらエッジの効いた文章になっていたようです。
数日後、感想の感想ということで、わたしの投書が全文東京版に載りました。
これが、活字初体験です。
そのうれしかったことといったら。
新聞を開いたまま掲げて部屋で飛び跳ねました。
後日、学生運動で収監されているおにいさんからの、桜のマークの校閲印が全ページに押された長いお手紙が編集部から転送されてきたのも、驚きでした。
母は心配していましたが、わたしには難しくてちょっと意味がわかりませんでした。
感じとしては、ファンレターだったように思います。
その次は、中学3年のときでした。
同じA日新聞の「声」欄。
当時マスコミを賑わせていたフェミニズム活動グループへの批判を思いっきり書いたら、また載ってしまいました。
その頃から、わたしの興味は、新聞自体よりも、同じ新聞社から出ている週刊誌のほうに移っていきます。
中学の卒業文集の「将来の夢」には、その週刊誌の編集部で働きたい、と書いています。
わたしが通っていた中高一貫の女子校では、ありがちな話ですけれども、ちょっとエッチななぞなぞが流行っていました。
問題:新幹線は男か女か。
答え:男。エキを飛ばして走るから。
他愛ないウルトラマンなぞなぞも同時に流行っていて、わたしはそれらをまとめて、また自主的に、つまり募集もされていないのに、週刊A日のタウン欄に送りました。
きっちり電話番号も添えて。
ほどなく、編集部の人から電話が掛かってきました。
「なぞなぞ面白いね。載せたいから、一度編集部に遊びにきませんか」
わたしはまた、部屋で小躍り。
ちょうど高校に上がる前の春休みのことでした。
母が編んでくれた、真っ赤なニットのジャケットを着て、有楽町の新聞社を訪ねます。
有楽町駅から銀座に抜けるたびに「いつかこのなかに入りたい」と両親にいっていたその建物に、15歳のわたしは、たった一人で入っていきました。
つづくー。