suckle nouveau 2018

エッセイスト・羽生さくるのブログ。

お題頂戴エッセイ大喜利⑫ 居場所

夏休み明け、学校にいきたくないこどもたちのために、

動物園や図書館が「どうぞ逃げていらっしゃい」といってくれているらしい。

思い詰めて死を選ぶ子が最も多くなるという9月1日。

緊急避難先はいくつあってもいいだろう。

 

ただ、心配になったのは、とくに動物園の場合、

逃げてきたこどもたちを迎えてくれるスタッフがいるのかどうか、

一人できた子が帰宅するまでの安全策は考えられているのかどうか、だ。

 

動物を見たり本を読んだりして、

学校だけが世界のすべてではない、ということを知り、

生きていく力を取り戻せたら、それは素晴らしい。

動物園も図書館も、その可能性を提供できる場所には違いない。

しかし、学校にいきたくないこどもたちを「いらっしゃい」と招くのは、

あくまでも人であって欲しいのだ。

 

学校にはいきたくないけれど、家にもいたくない。

行き場がない、居場所がない。

そんなこどもたちに必要なのは、場所ではなく、人だ。

 

先生やともだち、親や他の家族。

そのうちの誰か一人でも、その子にとって安心できる相手になっていれば、

行き場はあるし、居場所はある。

つまり「居場所」というのは「場所」ではなくて「人」なのだ。

 

その人がいる場所なら、どこでもその子の居場所になる。

安心できる人がいないなら、どんなに素敵な場所も居場所にはなり得ない。

 

なにがあるから、ではなくて、誰かがいるから、そこにいたい。

その誰かが、ここにいていいんだよ、といってくれるから、そこにいられる。

 

「一人でいたい」と思う子だったとしても、

またそんなときがあっても、

安心できる誰かがどこかに、確かにいることが大事だ。

 

一人の、親として、大人として、女性としても、

そのように存在していたいと思う。